一色淡生の全体面線点

思い付いたこと書く

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日記

絵をばかり、描く。

…、死について想う事。
まず、自分には死を肯定したいという気持ちがある。
死と生は人生の両足。
対立するものではなく、同じことの別面と思う。

人間の身体を見れば、細胞は三日間でほとんど更新されてるとか。
死と再生を繰り返しているのが人生。

死と生は同義語、対立するのは停滞ではないか?

問題は死ぬことを最大の停滞のように捉える感性だ。
その感性は違うと感じる。
死は有意義なものだ。
そうでなければ、三日間で更新される身体をどう捉えればよいのか?
細胞は死ぬことで生まれ変わっている。

死と生は排泄であり、生活は呼吸である。
停滞とは呼吸と排泄、どちらか、あるいは両方の乱調である。

この社会の不幸は安全に生きるためには停滞しなければならないと思い込みやすいことだ。
目に見えない、お化けのような無意識が人間の行動を縛っている。

我々は無意識を鍛え、思わずに、停滞を避ける肉体を獲得する方法を考えねばならない。
でなければ窒息してしまいそうな世の中なのだ。

最も重要なのは自発性である。
誰も排泄を止められないように、
我々にはそれぞれ抑えがたい衝動がある。

やらずにはおれない欲情、 

これは普段、律せられ、押さえ込まれている。
でなければ生活できない仕組みだ。

そりゃ、排泄ばかりしてる奴は生活できない。

しかし排泄は当然必要なのだ。
社会的な排泄は祭りによって行われてきた。
古代では単なる食事でさえ祭りだったわけだが、現代は複雑になった。

祭祀王である天皇の求心力も、失礼を承知で申し上げれば、以前ほどではないだろう。

豊かな国、容易に生きられる国、
というのは、つまり生活が保障されてる国、
そういう国ほど、祭りの効能は衰え、人々は停滞していく。

だから社会主義は崩壊するのだ。そうではないか?


我々が求めるべきは、保証ではなく祭りである。
生命ではなく、情念である。
退屈ではなく、刺激である。

ここの主客が逆転してしまって、自然に、感ずるまま動く人間が馬鹿にされ、
衝動を犠牲にして排泄を我慢しながら身もだえしてる奴が偉そうにしているとしたら、
これはなんという悲喜劇だろうか。

といってもこれは実体のない推測であって、実際のことは、それぞれが処理する課題なわけで、
我々は眼の前のことに専念するよりはない。

差しあたって、私がすべきことは、早急に睡眠をとることである。

寝ます。
おやすみなさい。

こんなとりとめもない内容を最期まで読んでくれてありがとうございます。
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  1. 2012/07/22(日) 02:07:36|
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